推敲の廃止

今書いている小説は推敲というよりあとから言葉をかさねる・文章をかさねるという考え方を重視してて、じっさいにはまあ、かさねるというより文と文の間にあとから時間をおいて文を挟んでいく、というのに近いけど、ひとりでいろいろな楽器を演奏してそれを重ね録りしてるようなつもりで私は書いていると思う。
ひとつの作品を書いている途中でだんだん頭の位置がぶれてくるという私の最大の問題を逆手に取って、ぶれをどんどん折り畳んでかさねていって厚みにする、さまざまにぶれた自分や自分や自分が自分と作品上で共演する、というようなイメージ。そのひとつひとつがくっきり聞き分けられるというより、渾然とした複雑な厚みのようなものが出たらいいと思う。
場面の廃止にひきつづきこれは推敲の廃止といえるのではなかろうか。もちろん現実には推敲にあたるような作業は含まれているわけだが、推敲という考え方をとらないという意味で廃止である。削ることよりも足すことを重視すること。いびつなものは削って直すのではなく、べつないびつなものとぶつけて生かすという方向で考える。だからこれは複数の時間軸をかさねるという意味で「編集」的な書き方であるけれど、そのひとつひとつの時間においては一回生を重視するという意味でやはり「録音」的であり「即興」的な書き方なのである。
というわけで推敲は私から一掃された。

場面制度の廃止

場面という考え方はたぶん演劇から来てるのだろう。もちろん映画もそれでできている。小説にははっきりあるわけじゃないというか、なくても書けるのだが、でも無意識のうちに場面という単位で考えがちであり、それですっきり構成が整理しやすいというメリットがあるんだと思うが、場面という単位をもちこむことは作劇をもちこむことになる。だから場面は廃止することにしたのだ。作劇という考え方の残りかすみたいなのがいろいろと私の足をひっぱってるんじゃないかと疑ってるので。

「単に飽きたら」モードを変えるというのはけっこう重要なことかもしれない。いいかえれば飽きるまで変えないということであり、そうかんたんに書き手が飽きてもいけないということだ。かんたんに飽きてはいけないのは、少なくともわたしの書くスピード(とても遅い)だと相当しつこくやらないと読み手が飽きるまでつづけたことにはならないからだ。読み手がちょっとしつこいなと感じるくらいまで続けずにモードを変えてしまうと、つまりそのモードに十分ひたったという気分になる前に切り替えてしまうと、切り替えの操作のほうがつよく印象に残ってしまい、つまり読み手に作品をストーリーとして受けとめる態勢をとらせてしまう。
自分の過去作品を思い返すと総じてしつこさが不足してると思う。それは場面という考え方に呪縛されていたことも一因だ。ストーリーを語るわけでもないのに場面に縛られていたので中途半端なことになった。なので場面は廃止し、モードという考え方で書くことにしたのである

書きかけの小説、最初の十八枚くらいまでは(今の頭で読み返したかぎりで、だが)自分でいうのもなんだがものすごく面白いと思う。そこからモードが地の語りから会話文に移行して面白さはちょっと落ちる気がするが、質的な充実感とか安定感はあるしつながりも悪くない。モードはこの二つに限定して、それぞれの中ででたらめのかぎりを尽くすということに徹したい。
そしてモードをどう組み立てるか(今やってるモードをどこで切り上げてもう一つのほうに移るか)ということを意識することだけが、ほとんど唯一ここでするべき意識的な操作ということになる。
場面という単位で作品を考えないほうがいいなあと思った。場面で考えるとそれはどうしてもストーリーになり、ストーリーであることを軽視するとできそこないのストーリーみたいになる。語りのモードを複数(たぶん二、三個)つかってそれぞれの内部での動きは自由にする、というシンプルな決まりだけで、あとは部分部分にひたすら没入してその場の即興的な判断にのみ従う。
モードを変えるのは全体をみての判断ではなく、単に飽きたらでいいと思う。

プロ野球選手のようなスイングをするには、プロ野球選手みたいな体が必要だろう。プロ野球選手のバットの動きを本物よりずっと遅くそっくりになぞっても物まね芸以上の意味はなく、バットが本物のようにボールをはじき返すことはない。
ところが小説は、はじき返すべきボールがあるわけではないので、「本物」が五分間で書く文章を五日かけて書いてもその違いはいちおう文章を読んだだけじゃわからない。だったら五日かけて書くことで「本物」のふりをし通そうじゃないかというのがしばしば揺らいでばかりいるが現在の私のとるべき態度だと思う。小説はどう書いてもいいのであり、十枚を書くのに一年かかってもいいのである。そのことに絶望さえしなければそれは一年後には書けてしまうのだ。

タイトルをシンプルにすると本文を複雑にしやすくなるというか、思いきって細部で大胆な動きがしやすくなる。シンプルなタイトルは位置がはっきりしてるので目印にしてそこからの距離が掴みやすいためである。
タイトルを複雑でねじれのあるようなものにすると、見るたびに見え方が変わるので位置が動いているように感じて距離感が狂ってしまう。すると本文は慎重に言葉を置きにいくようになって大胆さが失われてしまう。
という単純な話ではないかもしれないが、これくらい単純にしておかないと私は理解することも覚えておくことも覚束ない。なのでこれでいいのである。