地図的な文章

ある地理的・空間的な条件を呈示しながら、にもかかわらずその後書かれるものをイメージにおいて拘束することのない文章。これを仮に「地図的な文章」と呼ぶ。地図はそれを見るわたしの地理的・空間的な感覚を刺激し、地図を読む身体、のようなものを発生させるけど、そのとき目に入っているのはあくまで抽象的な記号だけであり、たとえよく知った土地の地図であっても(知らない土地ならなおのこと)わたしがそこを歩いていることを仮想する空間は、地図の上でこすれた視線が散らす火花のように、きれぎれに明滅するものでしかない。目の前にある地図は一種の言葉のようなものにとどまりつづけ、それがあくまで地図であることの魅力にわたしがひきつけられているかぎり、地図が指し示す空間のイメージはつねに地図自身によって示したそばから破棄されつづける。「地図的な文章」もまた地図のように地理的・空間的なものを呈示するけど、その空間はじっさいにわたしが書く言葉がふたたびそこにふれないかぎりは(ふれて火花をとばさぬかぎりは)ただの言葉でありつづけるのだ。空間はつねに言葉そのものの中にめりこんでいる。
地図的でない文章が空間的なものを示した場合は、つづきを書いているわたしの頭ごしにその文章は自らが指し示す空間とのあいだで何やら未来の約束をとりつけはじめてしまう。わたしはかれらのとりつけた約束に縛られて書くことになり、わたしが今書きしるしている言葉が小説の最先端(その先には何もないような場所)であるような実感はうしなわれ、わたしが書かなくともすでに存在している場所にただひたすら後追いで色を塗って回っているような虚しい、だらけた感覚にとらわれることになるわけだ。