私の頭で考えたことだけが書いてある文章

じっさい作品中のひとつの単語の選択がどの程度作品の価値(というか作品全体の印象のようなもの)に影響を与えているかを、書いた私自身が見きわめるには必ず一定の時間がかかる(数ヶ月間寝かせるとか)のだけど、おそらく数ヶ月後に見返してもそれほど作品全体の印象は変わらないであろう、と思えるような小説がだいたい単語ひとつに全体が左右されない小説と重なるのではないかと思う。というか、そういうタイプの小説を書くことでしか「単語ひとつで全体が左右されない」という事態を私は経験できないだろう。
そういうタイプの小説というのはたぶん「私の頭で考えたことだけが書いてある文章」でできている小説だと思う。ふつうフィクションというのは私とは別人として条件づけられている人間の視点で語らなければならないので、私の頭が考えたわけではないことだって書き込まれてしまいもする。のちのちそういう部分が祟ってくるのである。つまり私が考えたわけではない考え、の続き(の続き、の続き…)がどうなるかを私が書き続けなければならなくなるのだ。自分をモデルにした主人公なり語り手であってもそういう部分は生じると思うが、私はそもそも自分を主人公や語り手のモデルにするということがどういうことなのかいまいちよく分からない。日記を書いているわけでもないのに、書かれている言葉に自分を反映させつづけるというのはどういうことなのか。というかどうすればそんなことができるのか。
保坂和志の小説の文章はおそらく「自分の頭で考えたことだけが書いてある文章」なのではという気がする。保坂氏はエッセイと小説で文体が(さらにいえば生身の作者の語り口調も)あまり変わらないと思う。私自身はブログと小説で文体がだいぶ違うと思っていて、他人が読んだらどう思うかは分からないが、自分で違うと思っているということは、やはり何か地声の文章と小説を書くことの間に大きな断絶があるということなのだろう。