推敲の廃止

今書いている小説は推敲というよりあとから言葉をかさねる・文章をかさねるという考え方を重視してて、じっさいにはまあ、かさねるというより文と文の間にあとから時間をおいて文を挟んでいく、というのに近いけど、ひとりでいろいろな楽器を演奏してそれを重ね録りしてるようなつもりで私は書いていると思う。
ひとつの作品を書いている途中でだんだん頭の位置がぶれてくるという私の最大の問題を逆手に取って、ぶれをどんどん折り畳んでかさねていって厚みにする、さまざまにぶれた自分や自分や自分が自分と作品上で共演する、というようなイメージ。そのひとつひとつがくっきり聞き分けられるというより、渾然とした複雑な厚みのようなものが出たらいいと思う。
場面の廃止にひきつづきこれは推敲の廃止といえるのではなかろうか。もちろん現実には推敲にあたるような作業は含まれているわけだが、推敲という考え方をとらないという意味で廃止である。削ることよりも足すことを重視すること。いびつなものは削って直すのではなく、べつないびつなものとぶつけて生かすという方向で考える。だからこれは複数の時間軸をかさねるという意味で「編集」的な書き方であるけれど、そのひとつひとつの時間においては一回生を重視するという意味でやはり「録音」的であり「即興」的な書き方なのである。
というわけで推敲は私から一掃された。