くせのない明晰な文章で、視点人物の目の前にある事物だけかたっていくと結果的に何か得体のしれないような全体があらわれてくる。というイメージを理想と思ってここ何年か書いてみたけど、やっぱりこのやり方は自分にはどうしようもなく合わないんじゃないかと最近思う。


目の前のもの、個人の狭い視界に入ってくるものだけを書いてもひたすら景色が横滑りしていくだけで何も堆積していく気がしない。
細部と全体をなんらかのやりかたで同時に書いていかないと私の場合いっこうに小説にならないのかもしれない。カフカはひたすら細部側からだけ攻めて結果的に得体のしれない全体を暗示してる、かのように見えるけど、あれだけ明晰な細部に徹せられるのは逆に全体とか世界とかのどうしようもなく重い存在感が前提になってるんだと思う。両者が作品の中で最後まで出会わずに終わる(未完だったり)というだけで。
反対側に全体がないと細部はただ横に滑ることしかできない。私には書かずに暗黙の前提としてありつづけるような全体とか世界がないので、全体とか世界にあたるものを細部を緊張させるために実際に小説に書き込む必要があると思う。


表題作だけ読んでずっと放置してた笙野頼子『レストレス・ドリーム』をたぶん十年ぶりくらいに読み始めた。自分のもともとの文章の生理みたいなのが相対的に一番近い作家の一人がたぶん笙野頼子だと思ってて、だから影響受けすぎるとまずい(中途半端に受けて最後まで受けきる体力はない)と思って避けてたのと、冒頭に書いたような小説の理想と正反対にある文体だからとにかくここからはひたすら遠ざからないとまずい、という一種のシンボルみたいに考えていた。
『レストレス・ドリーム』はいわゆる夢小説的な作品だけど、語り手の存在の一部が主人公になっているというか、夢の中で狭い視界に縛られる主人公を夢全体を見渡す視点から語り手がかたり、その両者が同一人物であるという構造のために、細部への視点と全体の視点がつねに同時に(不規則に入れ替わりながら)存在できるようになっている。
夢小説は、夢を書くには夢からすでに覚めていなければならない、という事実を隠すことで成り立つものだと思う。隠しきるにはある程度の短さで作品が終わらなければならない。
『レストレス・ドリーム』は語り手が夢の外(主人公を夢全体との関係で眺める位置)にいることをあからさまにしてるので、にもかかわらず描かれるのは主人公の見ている夢の中に限られるので、語り手は夢=世界の全体を知っているという力でこの作品の長さを支えきっている。夢=世界の批評者であり、解説者であり、予測不能な奇想が描かれそうになる細部をつねに外側から抑圧して自由にさせない視線。この力の均衡状態が維持されることで作品が成立していると感じる。
(笙野のけっして明晰でもつねに詩的に冴え渡っているわけでもない、一見とっちらかっているようにさえ見える文章が手放さない力強いドライブ感はこの力の均衡状態がもたらすのかもしれない。)


この語り手のようなものが私の小説に必要だと思う。だらしなく奇想を横滑りさせようとする細部をつねに全体側から抑圧する、しかし細部と通底している語り手。夢小説だから当然だろうけどこの語り手のありようはすごく精神分析的なものではないか。