「夢文学」系の小説のモデルとしてまっさきに意識すべき作家が内田百間、「無職文学」系がボリス・ヴィアンだとして、小説を書く私にとって最重要なほかの作家をこの二つの名前の間にあくまで私の都合にのみ忠実にならべていくと以下のようになると思う。


内田百間−残雪−中原昌也フィリップ・K・ディックボリス・ヴィアン


各人名間の距離はバラバラでとくに百間と残雪の間にはまだほかに名前が入るべきかもという気もするけど、この中で決定的な境界線がはしっているのは中原昌也とディックの間だ。ここにある線を意識することで私が書く小説に起きる混乱の多くがが予防される(はず)。
程度やタイプの差はあれいずれも即興性の高い書き方をする作家と思うが、この線の右側は用意された物語の枠の中でする即興であり、左側は枠そのものが即興でつくられる、という違いがある。たとえばディックの長編作品はしばしば物語が破綻してるといわれるけど、それはあくまで物語としてあるべき枠が(作者にも読者にも)想定されていて、それを踏み外すから破綻に見えるので、中原や残雪にはディック的な意味での破綻はありえない。物語の枠がそもそも(作者にも読者にも)事後的にしか(あるいは事後的にも)見出されないような書き方をしているから。