幽霊の怖さと、生身の人間の怖さは同じものではない。だが両者はまるで無関係でもない。
幽霊の怖さには生身の人間の怖さが含まれている。言い換えれば、人間が他の人間を怖れる、不安に感じるという前提なしには幽霊の怖さは成立しないだろう。
この場合の「人間の怖さ」は「他人の怖さ」と言い換えてもよい。何を考えているか分からない、心の通じ合わない人間に覚える怖れと不安。いわゆる他人のみならず、潜在的には家族や友人、恋人といった親しい関係のあいだにも横たわるそうした感情の経験が、われわれが幽霊を怖れることの下地になっている。
つまり幽霊とはわれわれが自分以外の人間に見てしまう「他人性」が、生身と引き剥がされたかたちで現れてきたものである。
写真に写り込んでしまった(かのように見える)見知らぬ顔が怖ろしいのは、われわれが見知らぬ他人に見詰められているときにおぼえる感情が、現実的な心配(つきまとわれること、殴りかかられたり刺されたりすること、訳の分からぬ団体に巧妙に勧誘されること、等)と切り離されて純粋に経験されるからである。
そこでは現実的な恐怖の理由が奪われている。だからわれわれは幽霊を意味もなく怖いものだと感じる。それはわれわれが言葉以前から知っていた恐怖の対象であり、しかものちに言葉の世界で着せられた衣装をことごとく脱ぎ捨てた、というより衣装をまとうことのできる体そのものをを消失した、実体のない存在なのである。