この日記を(これはブログではなく日記です)ふたたび使い始めることにする。ここでは文学について書く。
私は自分を、小説を書くべき人間だと思い込んでいるが、小説家ではない。だが見方によっては歌人ではある。そのねじれにおいて書き、書くことを考えていくしかない。


小説についてではなく、文学について書く。
短歌は、短歌について書くことができるが、小説について書くことは、もうあまりできなくなっている。短歌について書くことと、短歌そのものを書くことの距離の近さにくらべ、小説について書くことと小説を書くことの距離は意外と遠い。
おそらくは、小説を書くことの小説、においてさえ遠いのだ。
そこで私は、小説について書こうとするとき、そうではなく文学について書くことで、その距離を意識に埋め込むことを考える。(あるいは映画について書くことでもいい)
ここでいう「文学」とは、ほとんど「小説」の意味を持つが、しかし「小説」と呼ぶことで引き寄せてしまう風景の多くは、「文学」とは何ら関係のないものでもある。


いま私は、おとといひどい酔い方をして以来のむかつきと、その場での自分の失態を思い出すことへの恐怖で体がふわふわしており、軽く解離している。しかし上に書き付けた言葉はほとんど事前に用意していて、ノートに書かれ、あたらしくブログを始めたら書こうと思っていた言葉なので、私の現在の影響を受けていない。
影響が認められるとすれば、その用意してた言葉をあたらしいブログではなく、古いブログへ書き付けるという決定に対してだ。


いくつかすでに意味のよく分からない部分があるが、最後の一節「しかし「小説」と呼ぶことで引き寄せてしまう風景の多くは、「文学」とは何ら関係のないものでもある」の「小説」と「文学」は逆ではないのか? ととくに思った。
しかしこれは、逆ではないのだとだんだん思い出されてきた。
その理由はいずれあきらかになるかもしれないが、おそらくはあきらかになることもなく、ふたたび問われることもないだろう。
それは問われることがないことによって、この場におけるもっとも有効な問いとなるのである。