ケータイ小説を私は読んだことがないが、われわれが書き、読むべき小説がケータイ小説に瓜二つのものになっていくのは間違いないように思う。
もちろん、視点を変えればそれらはまるで似つかぬものになる。だがわれわれが書き、読むべき小説が、ある貧しい画面のうえにきれぎれに映し出される、その一画面がまるでひとつの情緒の絵柄としての漢字であるかのような小説であることは間違いない、という意味では、やはりケータイ小説と瓜二つといえるのだ。
そのようなものとしての小説を想像する。そのようなものでありながら、詩ではなく散文であり、小説であるとしか信じられないような文字列のことを想像する。