●私はなぜ小説が書けないのか、その五


私は書きつつある小説の「ルール」を頭の中に保存しておくことができない。またこの「ルール」は競技ルールのようには明文化できないものだ(なぜできないのか、また絶対にできないのかは今は問わない)。よって小説自身に作品の一部としてそれを書き込むしかない。つまりそのルールに従って書かれた模範例としての作品冒頭部を置いて、つねにそれを参照しながら続きを書いていく。それがここでいう作品冒頭のルールブック化というものだ。
頭の中に作品の「ルール」が保存できるのなら、作品冒頭の、ひいては作品全体に含まれるルール成分をずっと薄めることができる。ガチガチにルールに縛られなくとも、適当に外したり遊びを入れながら長い目で見れば大きく踏み外すことなくルールを守っている、という書き方が可能になると思う。普通は小説というのはそのように書かれるものだと思う。
だが書きながら「ルール」が頭の中から消えてしまう厄介な書き手は、ルール以外の夾雑物の多い冒頭部を置くとそこからルール以外のものをルールと読み誤って、間違った続きを書いてしまうし、そこで新たに発生しかけたルールもまた夾雑物にまぎれて見失いつづけてしまう。結果書きあがるのは、何か言いかけてはすぐにやめてまた何か別のことを言いかけるという身振りだけを延々とくりかえすような読めない代物になる。
どんなにくっきりと(自分にとって)魅力的なビジョンのあった小説でも必ずそうなる、ということが身にしみているので、それをどうやら回避できそうなひとつの手段として冒頭部のルールブック化というものを最近意識するようになった。ルール以外の夾雑物をほとんど排し、頭の中にあったビジョンやルールがリセットされてしまった後の自分が作品に向き合っても、読み誤ることがないくらいルール濃度の高い冒頭部をとにかくいったん作り上げてしまうのである。
それは遊びの要素のない、ほとんどルールそのもののような文章になる。するとその先も同じ濃度で書き続けなければうまくつながらなくなるので、小説を書くことはルールブックをひたすら書き足していくような作業になり、それは作品が作品のルールとほとんど一致しつづけるような文章を書くことなので非常にしんどいし時間もかかる。ルールを横において自由にプレイする、というプレイヤー的な要素が作品からほとんど消えてしまうからだ。
だがいい意味でも悪い意味でも、私以外の人が読んでそのようなしんどさを文章から感じとることはまずないだろうと思う。私の書くほかの文章とくらべると、ルールブック搭載型小説の文章は相対的に読みやすいものになっている気がする。ルールをむき出しにし続けるためには、文の指し示すものや前後のつながりが曖昧だったり甘かったりする部分をひたすら排除しなければならないので、自然と明晰で読みやすくなるのだろう。
ただしもともと明晰さのひどく乏しい頭と文章なので、当人比の読みやすさであるにすぎない。またその分勢いとか、小説の「歌唱」性や「録音」性のようなものは大きく損なわれる。私は本来そちら(「歌唱」「録音」側)にだけいくらか価値のある書き手のはずではなかったのか。コマ撮りの粘土アニメをつくるような手間をかけて、結果的にごく普通の実写映画にしか見えないものをつくっているだけではないかという不安にとらわれる。そんなことをして何の意味があるのか。つまり相対的に明晰になった文章は、文章そのものへの注意を奪い、読み手の意識を何かこの先に控える事件のほうへと向かわせるのではないだろうか。もし事件など何も起きない、と理解させるにはそれなりの分量を読み手につき合せなければならない。こうしてただでさえ進まない小説の終わりはどんどん遠のいていく、というのが今しみじみと感じていることである。