●私はなぜ小説が書けないのか、その四


六月末に書き上げて応募するつもりの中篇があったのだが、締め切り直前に読み返したら、数日間の推敲でどうにかなるレベルではないと気づいて断念した。その断念にいたる経緯を整理しておきたい。
そもそもこの締め切りで百枚前後の小説を書く、ときめて取り掛かったのが四月初旬。
三月末に短篇を書き上げたとき、並行して書きかけていた(ほとんど冒頭だけだが)小説がいくつかあり、サイズ的に中篇になりそうなものもあったので、まずはそれらを書き続けようとしていたと思う。
私はものすごく飽きっぽく、またものすごく煮詰まりやすいので、何作かを並行して書くとどれかが行き詰ったときほかのに逃げられるし、ほかのに取り組んでる間に頭が離れて客観的に読めるようになる、という効用があると気づいたので最近は複数同時に書くようにしている。
で、いくつか書いているもののうち二篇については、作品を律するルールのようなものが生じており、そのルールはすでに書かれた冒頭部分に確実に書き込まれている、という手ごたえがあった。というか、冒頭がルールブックのようなものとしてくりかえし参照に耐えるほど固まるまでひたすら推敲を続け、その甲斐あってルールブックとしては完成度の高い冒頭は書けたのだが、その冒頭十枚程度のためにたぶん二ヶ月くらい費やし、さらにそこにあらわれているルールに正確な続きを書くのにもやはりルールブックを書き続けるのと同じぐらい手間がかかる、というやっかいな小説になってしまった。
この二篇はいずれ完成させたいと思うけれど、とにかく書くのに異常に時間がかかりすぎる。時間さえかければ確実に書けそうなのだが、書くためには確実に時間がかかる。調子が出てスピードが上がるということがまずありえなそうである。そのせいもあって二篇のうち一方がやっと予定の三分の一にいくかどうかという時点で、脳の中で覚醒してる場所が移動(というのが実感に忠実な表現なのだが)してしまい、続きが書けなくなってしまった。脳内の小説担当者が別人に入れ替わってしまった、というようなことで、私にはしばしばおきる。ここで無理して続きを書くと必ず破綻する(何しろ途中から別人が書くのだ)ので、元の場所がまた覚醒するまでその小説には手をつけないほうがいい、ということを私は経験に学んでいる。
このときあらたに一から書き始めた小説を、結果的に最後(六月末)まで書き続けることになった。未完に終わったこの小説については、ちょっとまだ客観的な評価はくだせない。残雪のように書くこと。あるいは、初期中原昌也の掌編のような書き方で長いものを書くこと。というのは絶対にやってはいけない、やろうとすれば必ず失敗する、とこれもまた経験に十分に学んでいたはずなのに、このとき残雪の小説をいくつか読み返して「今ならやれるかもしれない」とつい思ってしまった。時間のかかる書き方では間に合わないので、バクチが打てるというか、無意識にある程度預けられる書き方しかなかったのはたしかだった。ともかく一ヶ月で量だけは百枚近く書けたし、締め切り間際に読み返すまでは(もちろん書きながら時々読み返してはいた)絶望せずに書き続けられてはいたのだ。
しかし書きながら心に思い描いていたような小説と、じっさいに書かれた小説はだいぶかけ離れている、ということがわかってしまった。せっかく書いたのだからと無理やり仕上げて応募すると傷を広げ、かえって後々までダメージが残るということもまた経験でわかっていた。三ヶ月間ろくに働きもせず大量の時間を自分に小説は書けないことの確認の駄目押しに費やしたようなものだが、はじめから書けないとわかっているものを書こうとしているのだから、その点には絶望しないことにしている。とにかく今は、冒頭がルールブックになっているような小説の書き出しをバリエーション豊かに大量にストックすることを心がけ、それらを一つでも多く完成にもっていくことを考えるべきだろう。