時々書かないと自分が何をすべきかわからなくなる。というか、何かすべきことがあったかさえわからなくなってくる。だからとにかく書いておくことにする。私は私の頭の中のことを、書かずに理解するほど頭の面積に余裕がないのだから。
小説を全然書いてないという事実に向き合わないために小説のことを考えるのさえ避ける、という悪循環に陥りがちだという問題がある。私は小説を「書かなければ」とか本を「読まなければ」という強迫観念にとりつかれやすい。それは小説を書いたり本を読んだりするそれなりの理由を離れてただ「しなければならない」という命令だけが残っている状態ということだ。だったら命令に従ってじゃんじゃん書いたり読んだりするかというとそうはならない。強迫観念というのはつまり反復強迫なのである。同じ場所でひたすら同じ行為を繰り返すことに差し向けられるので、書いている/読んでいる文章の書き出しの一行をひたすら書き直し続けたり、ひたすら読み直し続けたりするのがこの命令にとらわれている状態である。私が小説を書けない理由の一部、そして本が読めない理由の大部分はこの反復強迫のしわざかもしれない。と最近思う。年をとってくると自分のことがだんだんわかってくるのはちょっと面白い。
私の部屋には読みかけの本がでたらめに積まれている。読みかけの本は一度どこかにしまって目に付かないようにするか、全部捨てたほうがいいかもしれない。読みかけの本は私の中の「読まなければ」の命令を呼び起こす。この命令は私の中の読みたい気持ちを塗りつぶす強さがある。反復するものは強いのだ。
反復強迫が、たとえば書くことに味方する場面というのもなくはなくて、超短編サイズのものをひたすら推敲する、言葉を厚く塗り重ねるみたいに書く、というときにはうまく折り合いがついてるのではなかろうか。逆に反復強迫の発症を予防して書くためには、同じ場所にとどまりにくい環境の中で書くのがいいだろう。書いたそばからつねに先へと押し出されていくような環境。即興的、録音的な書き方をしいられる(許される)ような環境。それはひとつはオンラインで(ブログの投稿ページやツイッターなどに直接)書いてしまうことであり、もうひとつは手書きで書くことだと思う。オンラインは未発表問題が面倒なので手書きはかなりいいと思うが、できればプリントアウトしたテキストと併せてつぎはぎしながら書いてみたいが使えるプリンタがない。ポメラよりプリンタを買うべきだったか。


今こうしてちょっと長めに(ツイッターのように切断なしで)文章を書いていると、だんだんと文章のサイズに自分の血管とか神経がのびていく感じがしてこういうふうに小説も書けたらいいのにと思う。関係ないけどはてなダイアリーは同じ日の日記にあとで追記するとき、すでに書いたテキストも表示されてしまうのが推敲を迫られてるみたいで嫌だ。だから調子に乗ってる時でも日に何度も書くということがしづらい。というか、「この続きを書くのだ」といわれてるようでその縛りがしんどい。なにかうまい対抗する方法はないものだろうか。