前回書いた夢○説という言い方はネットで今違う意味(Wikipedia)に使われてるみたいなので、検索避けに「夢文学」に言い換える。
で、私の書く小説の二つの本流である「夢文学」系と「無職文学」系の書き方は、一作品の中で絶対に混ぜてはいけない相容れないものだということに、こうして二分して命名してみたら気がついた。相容れないという認識が今までなかったのでしばしば混ぜて書いては、書きつつある小説からルールを見失う一因になっていたと思う。
「夢文学」は書く前にあらすじや設定などが決まっていてはいけない。かぎりなく前提がゼロに近い状態で書き始め、すでに書かれた言葉の中に次に進む道を見出していく、という先の見えない書き方に徹する必要がある。つまり夢と同じように、夢を見るように書くということだ。私が夢を、いわば自作自演なのに先の見えないドラマとして経験できるのは、夢が言葉でできているからだと思う。言葉がべつの言葉を思い出す、ある言葉が別の言葉にずれ込むという自動的な運動から遅れて意味が私にやってくる。言葉の運動が置いていった意味(イメージ)を拾いながら言葉の後を追う。そういう言葉との関係を小説に移しとるには、夢の中と同じように私は言葉の自律性に対して無力でないといけない。言葉が無意味に、おもに音とか字の形に引っぱられて敷いていく道をその都度意味として経験し直していくことがこの書き方の大事な点なので、私は道の敷かれる先にあるものをあらかじめ何も予想できるべきではない。
対する「無職文学」のほうはあらすじを決めてから書いたほうがいいと思う。それもできるだけベタな、あらかじめ先の見えている筋がいい。つねに同じ話でよいといっても過言ではない。これを「無職文学」と名づけたのも主題がつねに同じであるべきだということを示している。自分にとってまったく新しくない、忘れようもなく身に染み付いていて取れない主題とあらすじの上に、無意味な細部を書き込んでいく。固定した主題とあらすじを即興の細部で裏切りつづける、外していくということだと思う。アドリブのための最低限の決まりのようなものだから、主題とあらすじには飽き飽きするほどの切実さと安定感がもっとも必要だ。
「夢文学」のほうはいわば主題じたいが書きながら変化していくのだから、両者は正反対の書き方になる。ある主題で書き始め、その主題の変化じたいを書いていく(本当の主題は書き終わるまで/書き終わってもわからない)書き方と、固定したあからさまな主題を運命のように受け入れつつ細部で抵抗する(そしておそらく敗北する)書き方。というわけで当然両立するわけがないのだけど、こうして言語化するまでは一応区別しつつもしばしば混同していた。二つセットにして対照がくっきりしたのでたぶんもう忘れないんではないかと思う。