昨日の記事について。ここでいう作品の主題というのはたとえば「人間とは愚かで悲しい存在だ」とか「人生は一瞬の出来事である」とか「○○は○○だ」式にまとめることが可能なような、煮詰めれば言葉の向きがすべてがそこに収斂していくような枠組みのことで、ディックやヴィアンはそういう主題が運命のようにあらかじめ待ち構えている場所に言葉を繰り出している感じがする。そこでは主題に対する抵抗や逸脱として細部における即興がある。細部がいくらナンセンスに逸脱しようと構造的に主題はびくともしないのだが、そのことが細部に無力感と哀調をまとわせることにもなる。ディック的な破綻は細部の暴走が引き起こすというより主題側の不安定さの問題ではないかと思う。あるいは主題が主題であり、細部が細部であることの不安定さというべきか。
これらに対してたとえば中原昌也における「金が無い」「小説が書きたくない」はここでいう主題ではなくモチーフにあたる。主題が到着地としてあらかじめ示されているものだとすればモチーフはあくまで出発点にすぎない。たぶん主題とモチーフでは意味的にかぶるので適切な用語ではないと思うけど、今ほかに思いつかないのでこのまま使うが、昨日のこの人名の羅列


内田百間−残雪−中原昌也フィリップ・K・ディックボリス・ヴィアン


における左側の三者はモチーフの作家であり、右側の二者は主題の作家であるととりあえず看做して分類しておきたい。モチーフは始点であり、主題は終点である。ということはディック的な破綻というのは本来予定されていた終点を見失い、違う地点で終わりを迎えてしまうことだといえるだろう。モチーフ=始点の作家にはそういう破綻は起こりえないわけだ。