姜竣『紙芝居と〈不気味なもの〉たちの近代』読み始める。たいへんおもしろい。幽8号のインタビューがおもしろかった(刺激的)ので借りてきたんだけど、私はこの本の題名にも入ってるフロイトの「不気味なもの」という論文をいまだ読んだことないのに、過去間接・断片的に目にしてきた引用だけで相当気になってるのみならず、すでにだいぶ影響受けてしまったと思う。東浩紀が『フィリップ・K・ディック・リポート』掲載のディック論に援用してたの読んだのが影響を受けた最初と思う。
私が気になる怖いモノたち、の正体がそのフロイトの論文読めば一気によくわかる、ということはたぶんなくて、周囲でいろいろ考えるのが結局つづくはずだから、とはいえそのうち読むと思うけど、ひとまずこの本では(幽のインタビューを読むと)「民俗的なものから〈不気味なもの〉へ、理論の再構築を試みた」というところにすごく気持ちが反応し、実際その「理論」とは顔を知らない人を雑踏で捜すみたいにあっさり頁上で行きちがう気がするが、それでよくはないけど私的にはいいのである。論文を読めない頭は文学として読めそうな論文にだけ激しく反応し、いろいろ自分サイズの考えごとの刺激として引き続きこれ読み終わったらフロイトのも読む、ということにして、このあたりにしばらく頭を置いておきたい、という土地の輪郭線としてこの本をつよく印象付けておきたい(自分に)と思いながら読む。
「ただし、たとえば写真という技術メディアが写し出す霊は、もはや「かわいい」キャラクターに成り下がってしまったお化けや妖怪などでは決してなく、われわれ自身の分身(ドッペルゲンガー)であるところに本当の不気味さがある。妖怪を実体視し、恐怖を本質化してしまう視角からは、われわれの精神が自らの分身(ドッペルゲンガー)を不気味なものとして切り離しながら、その代償として自我を幻視するという心的機制は、とうてい見えてこない。そのことこそが、恐怖の源泉であり、自己の内部に起きる原初的な排除なのだ。」このあたりとか、じつにいいなあ。(私が)誤読してるとしても、いい誤読だ。怪談の話はいつか出てくるのかなあ。