私は先入観に異常にしばられやすい人間だと、自分のことを思っている。
しかし、どのようにしばられやすいのかの実例をここに書くことはできない。それを書くことは私の「私は先入観にしばられやすい」という先入観を強化することだからだ。
私は先入観にしばられやすい、と書き出した文章が、じっさいには何も「私は先入観にしばられやすい」事実を証明していないことによって、私は私の先入観から少しずれることができた、と感じることができる。
私は私について語りながら、私の外に出てしまい、しかしそこも見方を変えれば私なのだ、と気づくようなことが、書くことにおいて起きればいい。書くことがそのような意味をもつような場所が自分には必要なのだと思う。


私は数日前、書きかけていた小説をひとつ断念した。ごくみじかいもので、十枚ほど書いてもう少しで書き上がるはずだったが、そうではないことがわかった。その小説には何かまちがいが起きており、それがどんな間違いなのか、どこが間違っているのかを提出期限までに自覚し、やり直すのが不可能だと感じたのだった。
私は小説の書き方がわからない。小説に似たものを書くことはあるが、それを小説そのものに近づけようとすると何か間違いが入り込み、小説に似たものとしてもしかしたらありえたかもしれない魅力が、それが小説に近づくにつれ減少し消えていくのだ。
小説とそうではないものを分けるのは何だろう。私のいる側から小説に近づこうとしたときあらわれる小説の小説らしさは、ひとつは“長さ”である。小説にはあるていどの長さが必要である。あるいは、ある程度の長さの散文を、内側からささえるスタイルのひとつが小説である。
みじかさにおいてのみ可能な一瞬の発光というものがある。それを長さのあるものに移し替えたとき、発光は長さに応じてくりかえされることになり、光に慣れた目にはそれは発光そのものとして体験されるのではなく“発光という意味”に半ばずれ落ちて読み取られる。そのように読み取りつつ歩行していく読者と、息を合わせて書いていくことと、一瞬の発光に賭けることの両立が必ずうまくいかないのは、読者とともに歩行することがまちがいでないにせよ、その歩みを向ける方向がまちがっているのではないか。
階段をのぼったり、穴に降りていったり、私がばくぜんと「歩行」としてイメージする以外の歩行がありうるのではないか。言葉を水平にでなく、垂直にかさねる歩行のことを考えるべきで、今ここに書いている文章にもその意識をまじえてみている。そのためには私が直接語る必要があり、ということは小説ではなく詩に近づいてしまうのではというのがひっかかるところだ。
だが垂直さを歩行と交差させるのでなく、歩行そのものに変えてみることは、つまり発光と歩行の乖離がありえないやりかたであり、光の照らした方向に私自身が歩くことで、小説の中で自律した語り手の歩行の安定感を捨てるかわりに、私と語り手の意志が離れてしまうことはない。
もちろん物語をかたることは完全に断念しなければならない。つまり設定の断念。そんなことが可能?