深沢七郎の文章は歌っているといっても演奏しているといってもいいが、あとから編集されてつくられるタイプの魅力ではないものでできている。
意味的には冗長な部分も多いがそれは歌詞のないところや忘れたところを、鼻歌やスキャットでつないでいるようなものだ。編集されていないこと、つまり深沢七郎の「歌」が現実に生身をつかってそのとき持続していたことの記録として、われわれはそれを読むのである。


深沢七郎湯浅学、小笠原鳥類、小島信夫という名前をならべてここに反推敲的、即興的、録音的(「編集的」ではないという意味)な文章というくくりを設けておきたいが、後者の二氏はじっさい推敲をしないという話を読んだことがあり、前者の二氏はただ文章から受け取る印象がそうであるに過ぎない。また、ほとんど私は読んだことのない書き手も含んでいるので私にとっての覚え書きという以上の意味はない。


しかしさっきまで見ていた深沢七郎の本がどこかにいってしまった。




追記
上記のなまえに尾崎翠をくわえてもいいような気がした。


深沢七郎の本はまだみつかっていない。


追記
みつかりました。