日本語に「小説」と名前を書いて紙に切り取ってあるのが日本の小説なのはいうまでもないが、では、そこには何が書かれているのか。
それを言うことができる者は誰もいない。日本語には何が書いてあるか、を誰も言えないのと同じように。いくら紙に切り取ったとはいえ、それは紙に切り取った日本語にすぎないのだから、おまえは「小説」だと言い聞かせた記憶がこっちにぼんやりと(あるいはありありと)あっても、そんな熱心な説得の言葉が「小説」に通じていた保証はどこにもない。そもそも日本語に日本語が通じるのか?(小説は「小説」という文字が読めるのか?)


確実に小説を書く方法は翻訳することだ。それなら日本語の外からやってくる小説が、日本語ではない小説、だったものが、日本語になるのに手を貸すのだからそれは日本語である前にすでに小説だったのだ。
たとえば英語の小説なら、そこから英語だけを取り除いて日本語へと迎え入れたのだと思い込むことができる。
だがわれわれは、翻訳すべき小説をもたないわれわれは、日本語から始めなければならない。このうっかりひと月くらい口にしないこともあるかもしれない言葉を、同様に目にせず文字にも書かず、頭の中でつぶやかずにい続けることはありえないのだから、われわれは無の方から始めることはできない。
だがここまで述べてきたように、私には日本語と小説の関係がよくわからないのである。


もちろん、日本語とたとえば短歌(を私は小説よりは頻繁につくるが)との関係だって私にはよくわからない。ただ、短歌はいったい誰がきめたか五七五七七という音数を守れという立て札を目にせずに近づけないようになっており、その無意味な命令が頭から離れなくなった者がつくっていることが、短歌である条件なのである。
そうした無意味な、理不尽な命令が見あたらないのが小説の不気味なところだ。ジャンル小説にとってのジャンルなど、命令としては無意味さが足りないとばかりに無視すれば、小説はほぼ何を書いてもよいということになっている。にもかかわらず小説は、日本語から切り取られた紙の上にしかないし、切り取られなかったほうの(つまり単なる日本語に残った)ものとどこが違うのか事後的に指差すことはできても、あらかじめ立て札に書いて示しておくことはできない。


書き上がって読まれるまで小説なのかどうかわからない。ではやりきれないので、かわりに無意味で理不尽なルールを最初に自ら紙に書き込み、それを小説の条件だと信じ込むことで人は小説を書き上げているようにみえる。その代表的かつほとんどの場合採用されている例がストーリーであるが、ストーリーというルールは小説にとって意味があり過ぎて(がゆえに意味が蠢き過ぎて)ルールの役を果たさないと私は感じる。もっと話の通じない、話し合っても無駄だから従うしかないと思えるようなルールが必要であり、私にはストーリーはそのようなものとは思えないのだ。ストーリーの物質性、みたいなものへの感受性が欠如してるのだと思う。
というわけで『煙滅』という小説のことは気になっている。