小説を書くことと読むことはじつはかなり隔たった、血のつながらない、遠くにある行為なのではないだろうか。
というのは「書くように読む」こととくらべると、「読むように書く」ことはかなり難しい、不可能ではないがかなり実現の稀なことではないか、という実感があるからだ。
それは書くことと読むことの、速度の齟齬としてあらわれてくる実感である。書くことは遅く、読むことは速い。この原則がまず揺るがないにもかかわらず、書くことと読むことはまるで双子のように扱われすぎてはいまいか。


そもそも「書くように読む」ことと「読むように書く」ことはシンメトリーの関係にはない。
「書くように読」んだ文章を、私はじっさいに「書く」ことはできないだろう。読んだのち、あるいは読みながら書き写すことはできるが、それは私が書いた文章ではない。誰か他人がすでに書いた文章を機械的に写しただけであり、「書くように」は比喩のうちにとどまる。私ができるのは実際にはただ「読む」ことだけである。「書くように読む」ことは「読む」ことの中で見られる夢にすぎないということだ。


ところが「読むように書」いたものに関しては、私はそれを本当に「読む」ことができるのだ。
つまり書いている現場では比喩にすぎない「読むように」であるが、書き終えた私はそれを実際の行為に引き上げることができる。「読むように書」いたものを、書き終えたのちに実際に「読む」ことは当然ながら可能なのである。
だがそのとき私は「読むように書く」ことはいささかも「読む」ことではなかったのだと気づくことだろう。


書く速度を読む速度へ近づけることは、列車が走るスピードで線路を敷こうとするようなことだ。そのように敷かれた線路を列車が実際に走ることはできない。
だから「読むように書く」ことは困難であり、書くことはそれが読まれることを前提にする以上、読むことから遠ざからざるを得ない。線路を敷くことは列車の移動や景色の推移の速度とは無縁である。書くことは用地の買収という、いささかも列車が走ることに似ていない作業から立ち上げられる鉄道会社の仕事に似てくることになる。
つまり書くことは読むこととくらべて遅いのだが、それは想像以上にものすごく遅いのではないか。ほとんどそれが読まれるところなど想像もできないくらい、無関係といっていいほど緩慢な作業なのではないか、という気が最近ではしている。
魅力的な文章の書き手が必ずしも、というよりほとんどの場合魅力的な小説の書き手ではない、というわれわれのよく知る事態はここから説明できるのではないかと思う。それらはおそらく早く書かれすぎているのだろう。書くための遅さが不足しているのだ。
小説は、ほとんどそれが読まれることなど忘れ果てているかのような遅さで書かれなければならない。魅力的な文章、とくにネット上でその魅力をささえる運動神経のようなものが小説では輝きを失ってしまうけれど、ネット上の文章こそまさに「読むように書く」ことで輝く類のものだ。しかしその輝きを小説に持ち込める者はごく限られている。「読むように書く」ことで輝く小説は少数だがたしかに存在しているが、唐突に極論だけすれば、それはある種のタレント作家にのみ可能なものではないだろうか。