●私はなぜ小説が書けないのか、その二


私がここでいう「小説」は、たとえば「これは単なる物語であって小説ではない」みたいに原理的または歴史的に厳密に制限したあとに残る「小説」のことではないし、またはある種の「前衛」的な小説を排除して世の中の多数派の人たちがイメージする小説こそが小説なんだ、という意味での「小説」のことでもない。
つまりそれらをひっくるめて、きわめてゆるく使用している「小説」なのだが、私には「小説」が書けない。それはいいかえれば、私にはほかの多くの人ができているいくつかのことが、できないか、できても異常に時間がかかるということだと考えられる。
ひとつは記憶する能力に関する問題で、私は自分が経験したこと、見聞きしたことなどを言葉で(文章でも口頭でも)再現することが非常に苦手である。自分が見た夢、などもともと取りとめのないものから、すでにエピソードとして整理された他人の体験談や、骨太なストーリーのある小説や映画なども含めて、それを事後に言葉で再現する、とはつまり何らかの要約を自分で加えることを意味するわけだが、そうした再現を病的なまでに苦手としている。
おそらくパソコンのディスク容量のような記憶容量の問題ではなく(それもあると思うが)、見聞きしたものを物語化して保存する、という能力に問題があるのだと思う。見聞きしたものがすべて断片化、あるいは中途半端につながりをつけられただけの状態で頭にあり、エピソードの塊になっていない。またはそれらの断片を咄嗟にエピソード化して出力することもできない。基本的に箇条書きのように出来事をならべることしかできないのだ。
「小説」とはおそらく何らかのエピソードの塊のようなものなのだと思う。その塊じたいに意味があるとはかぎらないが、とにかく塊として完結感があることで、それをひとつの作品として読みうる土俵が生じる。言葉で何かが語られ始め、充実し、持続し、完結する。あるいは途中で切断があるかもしれないが、さらに大きな単位でそれらは持続していたことがたしかめられる。ただし「大きな単位」は作品の大きさを超えない。場合によってはジャンルや作家の名前、さらには芸術という概念などが作品の外で「大きな単位」を支える場合もあるだろうが、特殊なケースなのでここでは考えない。
「小説」が書けるための条件の一つは、記憶がエピソード化されていること、記憶を完結感のあるエピソードとして出力する能力を基本的な条件として備えていることではないか、というのがここでいいたいことである。
つまり世の中のかなりの数の人々がこれに当てはまるということだ。「小説」を書く能力というのは特別なものではなく、ありふれたものの組み合わせに過ぎないだろう。実際、われわれが今まで目にしたり想像したことのある「小説」の数よりも信じられないほど多い無数の「小説」がこの世には存在するし、それらはかなりの割合でそれなりによく書けているはずだと思う。




●私はなぜ小説が書けないのか、その三


長くなったので分けた。
「小説」がひとつの大きなエピソードの塊として、円が閉じるようになんらかの完結感にむかって持続していくとき、書き手にはそこに記されていく言葉がみな自分のものでありつつエピソードの一部でもあるという、たしかな実感があるのだと思う。私はそうした状態を維持することができない。言葉がたしかに自分のものであればエピソードから乖離して自分のまわりで堂々巡りを始めてしまうし、エピソードに言葉を寄り添わせていれば自分を離れてただ空疎な説明を置いていくだけになっている。
つまり「私」と「言葉」と「エピソード」のつくる三角形のようなものとして「小説」を考えるなら、私には「私」と「エピソード」をつなぐ辺が欠けている。私の「私」は「言葉」にしか直接アクセスできないし、「言葉」が「エピソード」と関係していくとき、今度はそこから「私」が離脱してしまう。三者で仲良くすることができないので、「言葉」と「私」が親密なときは「エピソード」が排除されるし、「言葉」が「エピソード」へ近づくと「私」が除け者にされる。
こうしたタイプの欠陥をもつ書き手が「小説」を書くためには、「言葉」にかなりの負荷がかかるのではないかと思う。まるで実感のもてない他人事のような「エピソード」を支えきってしまうくらい「言葉」に厚み(語彙、知識など含めて)があるか、または「エピソード」抜きで一定の分量の「言葉」を立たせてしまうほど「言葉」と「私」に濃密な関係があるか、といったところだろうか。私自身の書く体力の問題と、そもそもの言葉そのものの性質(長く書かれることで変化していく意味を「私」が受け止めきれるか)の両面から、もちろん何度も夢見て試してきたこの方向での書き方は不可能だとわかっている。
掌編ではある程度どうにかなると思うのだが、それは言葉を酷使してある最大の効果を出して、力尽きたときに作品が終わる、ということが許されるからで、それはたぶん「小説」より「詩」の書き方に近いと思う。ただし「詩」に必要な別な条件を満たさないのでそれらは「詩」でもなく、何だかわからないようなものなのであるが。
たとえば「主人公は桃から生まれ、鬼を退治して宝を持ち帰った」といった単純なあらすじにさまざまな細部が付け加えられても、それらの細部にあらすじから血が通って何かがゆきわたっている、と感じ続けていられることが「小説」を書いているということである。またはあらすじから断絶した細部が書き込まれても、それがあらすじへの批評として働くようなより大きな視点が別の一種の「あらすじ」として持続していると感じられることが、「小説」を書いているということである。
それらはけして瞬間的なものではない。「詩」は瞬間かもしれないが「小説」はそうではなく、あくまで時間をかけて持続するものだ。そしてその持続がどこかで終わり、完結していなければならない(「どこで切ってもいい小説」というのはいわゆるストーリー的なものとは別な意味で完結してるのだと思う)。その意味で「詩」はすべて「小説」になり損ねているのかもしれない。だからべつに「小説」が書けなくてもいいようなものだが、私は自分が書きたいものを何に似せるかといえば「小説」がいちばん近いような気がしてならなくて、自分の資質に逆らって、たぶん自分のいいところもかなり殺しながらも「小説」を書こうとすることは諦めきれないところがある。