以前小説のことを"「私」と「言葉」と「エピソード」のつくる三角形"のようなものではないか、そして私にはこの三角形がつくれないのでは、と書いたことがあったけど、これら「私」「言葉」「エピソード」はそれぞれラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」に対応してるのではないかと、このあいだ斎藤環の書いたラカンの入門書を読んでいて思った。たぶん対応してる、というか、そう考えたほうが私の狭い頭の外にこの考えの先を広げて預けてしまえると思う。「私」が「現実界」に当たるというのはちょっと変な気もするが、小説を書く場限定でいえばそういう割り振りになるのではなかろうか。もちろんこの場合の「私」は私という人間の性格や生活等のことではない。
で、十全な三角形をつくれない自覚とともに小説を書く者としては、中途半端な「エピソード」≒「想像界」の作品への介入をいかに防ぐかというのが鍵になってくると思う。つまりじっさいに書かれる言葉以前に頭の中をよぎるさまざまな(それ自体は魅力的でさえある)イメージに、言葉を妥協させずに書くという体勢をどう維持するかというようなことだ。私はただ不気味な部品をそれぞれのかたちから推測して置く場所を決めていき、それがついに作動するときがきたら一読者の立場からその奇妙な運動のうちに「私」≒「現実界」の気配を感じとる以上のことはしてはいけない。何が書いてあるかはつねに事後的に知るしかない、という立場で自作にかかわるという覚悟は必要かもしれない。
この場合「言葉」にかかる負荷の大きさ、つまりあらかじめ必要とされる言葉の厚みのようなものに私のからっぽな頭がどう対応するか、どこからそれを持ってくるのかという問題がもっとも切実な問題としてとりあえず目の前にある。部品集めを目的として部品がろくに集まったためしはないのだ。きっとすでにあるもの以外は役に立たないのである。そして私はいつだって、ほとんど手ぶらなのだ。ポケットの底や押入れの奥にあるのをすっかり忘れている古い部品のリストみたいなものをつくりながら書かないと、この書き方は経験的にいってあっというまに挫折すると思う。そのリストをつくることがそのまま小説を書くことのような気もするが。