書いているかといえば、ほぼぜんぜん書いていないわけだが、とうとうポメラを買ってしまってネットと自宅から執筆を切り離す用意ができたり、単語カードを買って「自分の無意識のあの領域に通じるトビラみたいな言葉」をカード化して溜め込む作業にとりかかったり、小説の書き方を変えるには環境から変えないと駄目だというわけでそういう準備は続けている。
今月末締め切りのあれには間に合うか微妙だが、その都度の仮の締め切りになるものがないとやる気が出ないのでひとまず目標にしておく。
すべてのできごとが言葉の世界だけで起き続ける小説、というのを書きたいと望む。読み手は当然そういう小説にもイメージを見出すはずだけど、書き手としてはあくまで言葉の世界だけにとどまる。書き手自身がイメージの世界で(言葉をイメージに寄り添わせて)書いてしまうと読み手に届く前にイメージが読み手を飽きさせると思う。
笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」を読んで、これはどうも今ひとつよくないと思った。『レストレス・ドリーム』『母の発達』という傑作とくらべると弛緩を感じるのだけど、それは言葉が言葉の世界(言葉の無意識の世界)に根拠を見つけられずイメージに寄り添っている感じ、なのかなと思った。何か芯のほうからの手ごたえのかえってこない状態で、風景描写とか取材して書かれたふうの情報などが継ぎ足されイメージだけが横滑りしていると思った。冒頭部にはたしかに無意識で反応する芯がある気がするのだけど、そこから奇想をくりだしつつもどんどん遠ざかっていく感じ。
私の小説でくりかえされているのは、はるかに体力も知力もない書き手による似たような事態ではないかと思う。ここで笙野が作品を支えきっている筆力にはある種の音楽性が欠けていると思うのだが、そのことがえたいの知れない凄みを(少なくとも成功作の場合は)もたらしているようにも感じる。だが私にはそういう才能はないとよくわかっているので、言葉をイメージに譲り渡さないために音楽性を利用する必要がある。造語としてのでたらめな文語体のようなものや、七五調の導入などを昔たいした考えもなくやっていたことがあるが、あれは私の資質からしてふさわしいことだった。おそらく音楽はイメージの侵入を防ぐと思う。言葉がイメージ(内容)に追従していない、ということの証拠として音楽を鳴らし続けるというか、歌い続けている状態を維持してそれを小説に録音する、という意識で書くべきだと思う。歌い続けるためにつねに手元で覗き込むカンペとして、私にとってイメージで充填することのできない言葉、無意識の活発な部分が表面近くまで迫り上がってきているような言葉をカード化して無数に箱の中から取り出せる(表面化できる)ような状態をつくりたい。私と小説のあいだを埋めるにはこうした手続きは不可欠だと思う。