小笠原鳥類『テレビ』を読む。詩はほんとうに読まないので、ほかとの比較ではないが行間とか余白に視線がみちびかれないのがいいなあと思う。字ばかりを見詰めてしまう。珍しい町並みがそこにあるように。何か訳あって一夜のうちに破壊され慌てて復旧した町並みのように。


詩と小説はいろいろな点で違っているのだろう。そのひとつは、詩は何度も読み返したり、同じ作者のものをいくつも読むことで呼吸を合わせていくことが読むことなのだが、小説はその作品の中で読み方をみつけて読まれなければならない。そのことなのかもしれない。
つまり詩は詩人によって書かれるのだが、小説は小説家によって書かれない。小説を書いたことで事後的に小説家になるということだ。もちろん、小説家に書かれれば小説として読まれる、という転倒は起きるのだが。
小説は、その作品の中で小説であることを証明しなければならない。先送りにすることができないし、小説の長さ以上の時間も与えられていない。散文とは、新聞記事や家電の説明書や得意先へのメールの文章と同じ価値でわれわれの前にあらわれる。必要がなければ二度と読まれず、読まれないかぎり何の価値もない(詩は、読まれなくとも価値を保存し続けるものではないか?)。


しかし小説が散文であるとはかぎらない、ということが、小説に終りの影がさしているともいわれるわれわれのあいだでは、しだいに、今よりも多く、これから口にされることになるのではないだろうか。
描写の消滅、がいっぽうでは透明な散文が物語への最短経路として素朴に酷使されることで、もういっぽうでは不透明な文字列がそれじたい景色化して描写を不可能にすることで、二極化して実現するということがあるかもしれない。


インテリが書きインテリが読むケータイ小説、を横から覗き込んでみたい(私はインテリではないから)という欲望が私にはひそかにある、ということもまたこうした予感の延長で書いてみたのである。