書くスピードが考えるスピードを何らかの理由で振り切っているときに書き込まれてしまうものこそが私の書きたいものなのではないか。つまり私は無意識が書きたいのであり、無意識しか書けないのだが、私が確実に小説を完成に近づけるやり方はスピードに背を向けた書き方しか知らないというジレンマ。

私の頭で考えたことだけが書いてある文章

じっさい作品中のひとつの単語の選択がどの程度作品の価値(というか作品全体の印象のようなもの)に影響を与えているかを、書いた私自身が見きわめるには必ず一定の時間がかかる(数ヶ月間寝かせるとか)のだけど、おそらく数ヶ月後に見返してもそれほど作品全体の印象は変わらないであろう、と思えるような小説がだいたい単語ひとつに全体が左右されない小説と重なるのではないかと思う。というか、そういうタイプの小説を書くことでしか「単語ひとつで全体が左右されない」という事態を私は経験できないだろう。
そういうタイプの小説というのはたぶん「私の頭で考えたことだけが書いてある文章」でできている小説だと思う。ふつうフィクションというのは私とは別人として条件づけられている人間の視点で語らなければならないので、私の頭が考えたわけではないことだって書き込まれてしまいもする。のちのちそういう部分が祟ってくるのである。つまり私が考えたわけではない考え、の続き(の続き、の続き…)がどうなるかを私が書き続けなければならなくなるのだ。自分をモデルにした主人公なり語り手であってもそういう部分は生じると思うが、私はそもそも自分を主人公や語り手のモデルにするということがどういうことなのかいまいちよく分からない。日記を書いているわけでもないのに、書かれている言葉に自分を反映させつづけるというのはどういうことなのか。というかどうすればそんなことができるのか。
保坂和志の小説の文章はおそらく「自分の頭で考えたことだけが書いてある文章」なのではという気がする。保坂氏はエッセイと小説で文体が(さらにいえば生身の作者の語り口調も)あまり変わらないと思う。私自身はブログと小説で文体がだいぶ違うと思っていて、他人が読んだらどう思うかは分からないが、自分で違うと思っているということは、やはり何か地声の文章と小説を書くことの間に大きな断絶があるということなのだろう。

私は本を読むのが苦手なうえに記憶力がものすごく悪いので、頭の中に単純に言葉のストックが足りない。だから小説を書いていてもその文章のその箇所にふさわしい言葉というのが浮かばなくてあちこち空白を残しながら書いている。単語ひとつの選択で価値がゆらぐようなタイプの小説は書きたくないと思うが、意に反してそういうタイプの小説になってしまっているのか、それとも私の性格上の問題からなのか、こうした空白をたとえば時間切れで適当な単語で埋めてしまったときはのちのちまでその部分への違和感をひきずる。これはまあぎりぎりで選ぶとなぜかベターな選択どころか最悪の選択をしがちだというべつの問題もあると思うが。
単語的な貧しさ(舌足らずな言い方だけど)というのは小説の貧しさの一部だとしても枝葉末節にすぎない、とは思いつつも単語的に貧しくてもびくともしないような細部だけで成り立っていると自信のもてる小説が、そう書けるわけがなく、読み返してここが弱いという部分があちこち見つかったときに、じゃあどうやって補強するか、それとも思い切って切り落としてしまうか、切り落とすと作品として成り立たないなあと思えば補強するしかなく、しかし小説としての貧しさを克服した文章を前後の流れにぴたりと収まるかたちで後から書くのは至難の業で、まして〆切が迫っているとなれば、これはもう次善の策としてせめて単語的な貧しさだけでもここから取り除いてみようかと類語辞典をめくりはじめることぐらいしかできないわけだ。表面を取り繕うことでしかないと思っても。しかし取り繕われたものは醜い、取り繕った者はそれを忘れることはできないのだし。
単語ひとつの選択程度では価値がゆらがない小説、とはどのようなものかについてはまた項を改めて。

地図的な文章

ある地理的・空間的な条件を呈示しながら、にもかかわらずその後書かれるものをイメージにおいて拘束することのない文章。これを仮に「地図的な文章」と呼ぶ。地図はそれを見るわたしの地理的・空間的な感覚を刺激し、地図を読む身体、のようなものを発生させるけど、そのとき目に入っているのはあくまで抽象的な記号だけであり、たとえよく知った土地の地図であっても(知らない土地ならなおのこと)わたしがそこを歩いていることを仮想する空間は、地図の上でこすれた視線が散らす火花のように、きれぎれに明滅するものでしかない。目の前にある地図は一種の言葉のようなものにとどまりつづけ、それがあくまで地図であることの魅力にわたしがひきつけられているかぎり、地図が指し示す空間のイメージはつねに地図自身によって示したそばから破棄されつづける。「地図的な文章」もまた地図のように地理的・空間的なものを呈示するけど、その空間はじっさいにわたしが書く言葉がふたたびそこにふれないかぎりは(ふれて火花をとばさぬかぎりは)ただの言葉でありつづけるのだ。空間はつねに言葉そのものの中にめりこんでいる。
地図的でない文章が空間的なものを示した場合は、つづきを書いているわたしの頭ごしにその文章は自らが指し示す空間とのあいだで何やら未来の約束をとりつけはじめてしまう。わたしはかれらのとりつけた約束に縛られて書くことになり、わたしが今書きしるしている言葉が小説の最先端(その先には何もないような場所)であるような実感はうしなわれ、わたしが書かなくともすでに存在している場所にただひたすら後追いで色を塗って回っているような虚しい、だらけた感覚にとらわれることになるわけだ。

私の書いた「腐葉土の底」(Witchenkare vol.2)という小説はこのように始まる。〈墓県の県庁所在地は墓市なのだという。市長は死人だ。〉この小説が自分にとって例外的に一貫して「書きやすい」ものだった理由をかんがえるに、この冒頭の一行が書き手である私に地理的・空間的な条件を示しそれをふまえることを要求するものだったことは大きいと思う。わたしの物語的な想像力はおそらくこうした方面に極端に偏っている。
しかし一方で地理的・空間的な条件というのはいわば未来からやってくるもののひとつであり、ある空間の存在を示す一行は、その空間で起きたことのその後の記述によって支えられるのだという問題がある。
つまり冒頭の一行がその後書かれるものの大枠を呈示してしまうという、わたしが一番いやがっている事態が予想されるのだが、なぜそうならなかったのかというと、この空間が言葉の側にほとんどめりこんだものであり、言葉の外にイメージすることが困難だったからかもしれない。
この一行によってひらけたイメージが未来から今の私を圧迫する、ということにはならなかった。この一行はひたすら一行そのものの中にめりこんでいくように見え、この空間について何か書き続けるということは、暗闇で指がふれたものについて書くことだった。しかし空間的な感覚を刺激されているので書く身体のようなものは見失わずにいられる。書くわたしにとっては理想的な冒頭の一行だったということかもしれない。

スイッチについて

30ぐらいの時いろんなスイッチを切ってしまったが、それらが何のスイッチだったかもう思い出せない。年収百万で東京で屋根のあるところに十年以上住めてるのだから「節電」はみごとに成功しているのだといえよう。
この十数年はものすごく早かったような、時間が止まってるような奇妙な状態。何も起こらないし何も変わらない。何かが起きたとしても電気がついてないから暗くてわからないので無視する。唯一ついてる部屋の電気も暗いので自分の顔が老けたことにも気づかない。だが何も起きない一年はうすっぺらいので去年やおととしや五年、十年前のことまで透け透けだ。だからみんな昨日のことのように近くにしか感じられない。

ネットで日記とかツイッターとかで何か書くよりも、小説を書くことのほうが独り言に近い。ブログなりツイッターなりではまったく反応がなくても人に読まれているという意識が完全に消え去ることはないが、小説は消える。依頼原稿ではない、頼まれもせず勝手に応募する原稿を一方的に書いているせいかもしれないけど、読まれるという緊張感が書いてる最中たびたび消え失せてただの独り言になる。しかし実際の独り言のように途中無言でいるわけにいかないから無理に独り言を途切れなくいいつづけるようないびつな状態になるので、独り言としても弛緩したどうしようもないものが大量に混じってくる。
小説の中で登場人物どうしが会話しても、しょせん独り言の応酬だ。人形遊びしながら子供がぶつぶつ言ってるのと変わらない。しかも人形遊びのように他者の目を忘れて没頭してるわけではなく、人に聴かせようという意識を中途半端に含んだ発語なのでいやらしい自意識がにじんでいる。
ファミレスとか喫茶店で書くというのは、直接書いてるものを読まれるわけじゃないが、他者の目にさらされているという緊張が書く姿勢に影響をあたえるのでたしかに有効なことなのかもしれない。小説を書くことはストレスをともなうが、極度のストレスを感じてるから弛緩してないということにはならない。そのストレスからの逃げ場として、こともあろうに小説そのものの中で弛緩して羽をのばしてることに自分で気づかないことはよくあるようだ。あとで読み返すまで気づかないのだが。