できれば先月中に五十枚越えしたかった小説が、どうにか三十枚越えしたあたりで小休止ぎみであるが、たぶんこれはこのまま書き続けられるだろう。だが書くスピードを上げることが不可能なタイプの小説なので、まちがって書くペースを上げてしまわないように気をつけないといけない。書くペースを上げると文章の質が変わってしまうのである。文章の質が変わると作品の質が変わってしまうタイプの小説なので、あとから文体を調節すればいいという話では済まなくなる。
タイトルはミもフタもない単語を使っているが、当面変えないほうがよいと思う。タイトルをシンプルにしたほうが本文を複雑にすることに迷いがなくなるように感じる。

書くことでそこから遠ざかるための始点として、でもぜったい自分が引力から逃れられないものを象徴的にタイトルにつけるといいような気がした。
タイトルにつけることでどこを書いていてもつねにそれが目に入るし、離れるための目印なのでタイトルやモチーフに拘泥して煮詰まる原因にはならない(予防になる)し、でもそもそもが逃れられない宿命的なもの(を選んである)だから作品すみずみまで離れようとすればするほど求心力としてはたらくはず。
夢=外傷系の小説に無職=宿命系の要素が混じるようなことだが、後者がふつう逸脱の前提とするテーマとかプロットよりもっと単なる「言葉」としてのタイトルだから本文との関係がもっとずっとシンプルで、本文の自由度は高く、ゆるくもできるので、うまくいけば構造として強いものになるんじゃないかと思う。
問題はタイトル単体の単純(なものにならざるをえないだろう)さに自分が耐えられるかどうかであるが。

自分の書いている文章にもつねに死角があって、本当にあったことや本当に考えたことをなぞるような書き方をしても、言葉がそれを囲う塀のようなものである以上、その塀の向こう側は死角として存在している。それは言葉で書かれる以前にはなかったものだ。頭の中にあるものにかたちを与える作業が塀を必要とし、かたちを与えられたものは塀をはさんだ向こう側の死角との緊張した関係に入る。

ややこしい話であるが、「自分で何を書いてるか分かってる」小説もほんとうは分かってなどいないのである。
だが暗闇に向かって言葉を発しつづけるような無責任さに立つのではないという意味で、何を書いてるのか分かってることにして書くということだ。投げ込んだそばから懐中電灯で照らして位置を確認したり、そういうチェックをこまかく入れながら書くことである分量の言葉をコントロールしようとしている。
ごくみじかいものを書くときはそういう責任感から解放されることができる。投げっぱなしでいられるということだ。
それはたとえば暗闇が「押し入れの暗闇」のような物質的な限定をもつとすれば得られる無責任さといえるかもしれない。
暗闇に向かって書く場合に必要なのは押し入れか、闇の中でも見失わずかえってさえわたるような強固な身体感覚のようなものだ。

自分でも何を書いてるか分からないものが、書いていて最も自由を感じるのでそういうものが書きたいのだが、小説でそれが成功したことはない。
小説でそれ(自分でも何を書いてるか分からないもの)を書くには、書く意識のゆれとか不安定さにびくともしないような形式性や物質性のようなものが私の外に厳然とあって、それと接し続けることでしか小説が書けないという条件にしばられることが必要なのだと思う。
何を書いてるか分からないものを書くのはたのしい。そういう文章に適当なタイトルをつけるのもたのしい。
何を書いてるか分かっているものには、ちゃんとふさわしいタイトルをつけないとそれが「ふさわしくない」と自分で分かってしまうからだめだ。そういうタイトルのつけかたはたのしくない。苦しい。だから小説を書き上げたあとでタイトルを考えるのはいつも苦しい。
タイトルを考えるのがたのしい文章だけが本当は書きたい。
適当につけたタイトルからの連想だけで書き終われる文章だけが書きたい。私のベストはそういう文章だと思う。ほかのものはうまくいってるものでも実はかなり無理をしてる。

眠いので簡潔に書くが「ひまなバイトの時間ほどいろいろな面白いアイデアが浮かぶ時はない」と思った。
自分の文体や考えることのブレだとか、記憶や感覚の断絶などは短歌というジャンルではある程度許容されるので短歌をやっている、というところが私はあると思うけど、小説(散文)の場合は掌編を何らかのフォーマットのもとで量産してるときにその許容の感じを味わえるので、そういうのが好きだったことを思い出した。そういうのがやりたいと思う。具体的には百物語という言葉をタイトルに入れて、じっさいはべつに百でもなければ怪談でもないというものにする。文体とか書き方は積極的にばらつかせるためにいろんな作家の文体模写などをゆるく、似てたり似てなかったり割とどうでもいい感じでする。内容はなんでもよい。各話の字数も制限なし。ただしいくつかここには書かない決まりがあってそのことで「百物語」性が維持されていると何の根拠もなく信じてみることができる。
それなりに数も溜まればどこかに応募するなどの使い道も生まれるだろう。ごく短い文章をどんなことでも自由に書いてもいい、というのはとても素晴らしいことなのだが、使い道ということを考えだすとこの素晴らしさはたちまちまた抑圧されてしまうだろう。だから私は超短篇は詩のようなものだという考えには反対で、というかそういう狭義の超短篇には余り興味がなく、ただ単に短くて自由であること、つまりでたらめであるような短さを支持したいと思う。